JA横浜 vol.232
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3412IEFGHABCD歴史繁栄を続けてきた横浜キャベツの歴史を紐解く かんらんつまごい市内でキャベツ生産が始まったのは、洋食が大衆化した大正後期から昭和5年頃だといわれています。横浜市中央卸売市場が近かった神奈川区神大寺と片倉の篤農家が先駆け。昭和32年頃、出荷規格の統一を図るために「片倉採種組合」を組織して共同採種をすることに。昭和えられている「神奈川甘藍」の育成に成功しました。この前年には同品種を「甘藍」という名で東京都の明治神宮で開かれた農産物品評会に出品。甘みが強く、柔らかい肉質と耐病性の高さなどが極上と評価され、農林大臣賞に輝きました。昭和37年には当時の神奈川農協が「神奈川甘藍」を特産として共同出荷を推進するため、野菜部の前身となる「そ菜部」を組織。当時、高速道路の開通などで流通経路が発達したことから群馬県、愛知県、千葉県などの大産地が横浜に流入。これに対抗して生産技術の向上を図り、出荷体制を整えました。ただ、昭和40年代には品種改良が進み、交配種が次々と普及。徐々に独自品種の栽培が衰退し、途絶えてしまったそうです。この同時期には保土ケ谷農協、横浜北農協、横浜南農協などがキャベツの共販を開始し、昭和51年に市内で一本化されました。国の指定産地になり、共同出荷するキャベツの総称を発祥の地を由来にした「神奈川キャベツ」に統一。ブランドを確立しました。この名称は昭和60年に「横浜キャベツ」と名前を変え、現在も消費者に親しまれています。市内の農協が共販を始めた当初、横浜産のキャベツは市場に出荷後は大産地の名前に埋もれてしまい、相手にならなかったそうです。市場担当者からの有利販売ができるというアドバイスがあり、名前を統一することに。段ボール箱での出荷も採用し、市場で目立っていた群馬県の嬬恋村産や生産量の多かった愛知県産などとともに一目置かれる存在になりました。横浜キャベツの始まり出荷容器の変遷1.共販開始時の出荷風景 2.出荷検討会 3.品評会の審査 4.収穫と同時に箱詰めをするのは今と変わらないA.網袋  (昭和40年春のみ)B.すかし箱  (36年から43年)C.クラフト紙袋  (38年から40年)D.竹かご  (43年から46年)E.ポリ袋  (43年から52年)F.ポリかご  (47年から50年)G.ダンボール箱  (50年から)H.ダンボール箱  (56年から) I .ダンボール箱  (60年代から  平成5年ごろまで)出典:神奈川農協三十年史、野菜部会二十年のあゆみ 神奈川農協野菜部会編より36年に「しずはま」の先祖と考

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