Agri横浜 vol.218
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起源は江戸・昭和都筑区の美麗な富士塚かつ いち都筑区の港北ニュータウン地区。ここには江戸、昭和と、富士山の山容を模した起源の違う2つの富士塚が鎮座します。平成になると、のどかだった周辺の風景は一変。かつての信仰の塚が住民の憩いの場として定着し、昔と変わらぬ富士山の雄姿が楽しめます。北山田にある山田富士は森の頂上部に土を盛り、円すい状の塚を築いた造り。登山口は2つ。東側を御殿場口、南側を吉田口といいます。江戸時代の文政年間(1818〜30)には、高さ30㍍ほどの塚として存在していた記録があり、平成8年には横浜市地域史跡に登録されました。地元の小泉勝一さんは、「ニュータウン開発前の昭和には、家の目の前に山田富士が見え、庭の借景のようだった」と話します。昔から町の名所として知られ、各地から見物客が来たほどの富士塚。山頂には火口を模したくぼみまであり、当時は深さが大人の背丈を超え、降り口が2カ所あったそうです。中心に建っていた石碑は今では埋まり、先端だけが見えます。塚の南側を走る片側2車線の日吉元石川線は、かつて一面の水田。「70年ほど前には干ばつによる雨乞いのため、大山に2人が参拝。持ち帰った水を町内会の人達が山田富士にまきながら登っていたのを見た」と言います。江戸時代末期から27年間の歳月をかけ明治20年に完成(同24年に山開き)したとされる旧川和富士は、港北ニュータウンの造成で消滅。先人達の富士信仰の証しを刻んだ石碑は地元・川和町の八幡神社内に移され、当時を知る人の記憶を呼び覚ませます。 現富士塚は地元の願いが実り、昭和61年、200㍍ほど南東に離れた川和富士公園に再現。らせん状の登山道はスロープで、かつて旧川和富士に登った方々にも親しまれています。山頂からは富士山をはじめ、みなとみらいや新宿副都心の高層ビル群など、360度の眺望。周囲には緑道も整備され、緑陰を存分に楽しめます。愛着がある山田富士を振り返る小泉勝一さん 右 下 開放的な夏の川和富士 山頂から富士山を望む江戸昭和山田富士川和富士ソメイヨシノが咲くなかで山頂部分が顔を出す山田富士の朝山田富士の山頂は眺望が良く富士山同様の「お鉢巡り」もできる

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