Agri横浜 vol.218
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ぼ  さつのぼりろく ろう富士山を信仰して登山参拝をする講中が、江戸時代中期に特に広がりました。富士塚(富士浅間)は参拝に行けない人々のために、村々に築造。近隣7カ所の富士塚を拝んで回る「七富士参り」が流行しました。今では開発等で富士塚は次々消滅。公園の名前としてや石碑だけが残る所もあります。の富士には登山道や石碑も存在。講中の集まりはコロナ禍で一旦休んだものの、例年、富士の草刈りを済ませ、6月1日の山開きには各地の富士講が名刺代わりに渡してくれた印(小旗)を掲げ、講中が集まりお神酒を交わします。神奈川区菅田町の2つ山の斜面に土盛りをして富士塚を築いた、菅田熊野堂の富士塚。富士山の〝○合目〟に相当する一の嶽から九の嶽、中腹、山頂に石碑等があります。当講中にとって七富士は、下の写真5カ所と西区の浅間神社、緑区の東本郷富士塚(塚は消滅)をさします。講中の金子利一さんは「子どもの頃は参道に露店が並び、腰に鈴を付けた白装束の人達が次々参拝に来た」と言います。次第に人数が減り、10年ほど前までは鶴見区生麦から1人が来たそうです。菅田中村富士浅間の造営は宝暦8年(1758年)。保存会が結成され、6月1日には入り口に幟一対、参道には「富士浅間大菩■」の小旗や各地富士講の印を掲げます。集まる講中は、富士浅間がある中村に加え、中島、道慶谷戸で合わせて30人近く。中村講中は、奥様方も一緒です。皆さんは山頂の石碑「富士浅間大菩■」前で二礼二拍手一礼後、お神酒で乾杯をします。保存会の鈴木陸郎会長は「近所同士の交流が薄れつつある今の時代で、こうして昔からの仲間が集まれるのは、とてもうれしい事」と、富士浅間を拠り所にした一体感を感じています。)() 右 上区生麦の講中(平成11年)にするん、金子詔司さん、金子利一さん、(左下から金子隆一さん、井上良一さん、金子勝男さん 七富士参りに来た鶴見 近隣各地の印(小旗)を手左上から金子巌さ参道に多数の石碑菅田熊野堂の士富塚菅田中村富浅間士山開きに掲げる幟を手にする保存会の鈴木陸郎会長   左上 菅田中村富士浅間(神奈川区菅田町)菅田公園内で中腹から上は立入禁止右上 菅田熊野堂の富士塚(神奈川区菅田町)右下 小机富士(港北区小机町) 小机城址市民の森の中、富士仙元ともいわれる左下 西谷富士(保土ケ谷区西谷町) 上星最勝寺の隣、シダレザクラ(表紙)は圧巻 右  羽沢富士(神奈川区羽沢町) 車道脇にあり西側は菅田・羽沢農業専用地区川富士ともいわれ、隣は富士山神社3講中で山開き神奈川区と周辺の富士塚講中が集う2つの富士浅間神奈川区菅田町

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